父、山﨑光雄は昭和8年9月26日に東京の新宿区で生まれてから、令和2年10月5日に同区で87歳で死去するまで、戦後の高度経済成長を支えた世代の一人で、弛まない努力を惜しまずに、数奇な人生を生き抜いた大変な苦労人でした。
小学校2年生で父親を病気で亡くし、母親の里、新潟県に疎開。戦中戦後の混乱期を乗り越え、16歳の若さで2年間、親元を離れて被災地復興の土方や、静岡県での農作業などの重労働をして貧しい家計を助けました。その後学業に戻り、父親がかつて働いていた西武ゴムの関係会社である西武百貨店に就職し、働きながら法政大学経済学部を卒業しました。
水産高校で学んだ経験から食品畑で本領を発揮、同じ食品売り場で働いていた母によると、全ての魚の漢字もちろんのこと、難しい字をよく知っていて、夜間によく行われた売り場移動の際に、床に書かれた異動先の達筆な字には惚れ惚れしたとのことでした。池袋本店を取締役店長として全国百貨店売上高日本一に導くなど精力的に働き、西武百貨店関西常務取締役として、西武百貨店の全国展開に貢献し、放火で開店数日前に火災に遭った関西第一号店、西武高槻ショッピングセンターを開店させました。他にいくつかの百貨店を作り、東京に戻り代表取締役社長を3期6年勤め、西武百貨店の黄金期を支えました。
退職後はベネッセコーポーレーション会長、私の母校である共立女子学園の監事の他、出身校であるの現在の新潟県立海洋高等学校や法政大学経済学部の発展にも大いに寄与し、穏やかな余生を過ごしました。椿をこよなく愛し、人情に厚く、家族や親戚、友人を大切にし、座右の銘、至誠天に通ず、そのままの人生を全うしました。
お世話になりました皆様に、父に代わりまして心より感謝し深く御礼申し上げます。
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ー 令和3年7月 山﨑 クレップス 晶子